自分は残った人に対して偲ぶことにあまり時間を取らせたくない
■私の場合、墓への参拝は要らない
父親は15年前に病院で医師の手術ミスで急逝した
存命中、父親の言葉
そもそも人は思考停止と共にこの世に存在しなく
なるし、身体はやがては風化し、自然の一部になる
私の場合、もともと無宗教であったが、急遽仏式で葬儀をあげた
そして、墓地を探して墓を建て、仏壇を購入し実家にしつらえた
没後どうして欲しかったわからないまま、何となく皆がそのようにしている
からという理由で、習慣なのか風習なのか、納得するとか合理的とかは
深くは考えたことはなかったが、墓前、仏壇の前では父親には「会いに来た
報告」「元気か」「今こんなことやってる」とか瞬時に漠然と、冥福を祈る
固まりのような気持ちを一生懸命込めようとしている
その時によって「込め方」に強弱がある
強弱などと恥ずかしい部分でもあるが、正直なところそうである
命日などが過ぎ、振り返って気づくことは
父親が大切にしてたことを思い出す
檄を飛ばすことがあれば、一体何か教えてくれ!と何気なく思う
■仏壇に関しても、素朴な疑問
この機会に、少し性格は違うが同じように合掌する場として
1点目
釈迦の教えを弟子の方々がそれぞれの解釈により宗派に分かれ「経」として
まとめた書典をお寺さんに読み上げてもらっている
馬鹿な事をというが、線香をあげて合掌するのは故人に対してであって、
仏壇中央奥には仏像ではなく、故人の象徴的な何かの方が実感が湧く
勝手に並べ替えろと言われても、困ったものでそこが弱いところ、不遜な
気持ちや「ばちがあたる」みたいな子供心の刷り込みのような気分で抵抗
感は半端なく出てくる
2点目
仏壇は設置した途端に特別な部屋になり、それが寝室として使う場合、
私の本職は建築設計で、経験上、もともと床の間だった部屋に仏壇を置けば
名称としては仏間と呼ぶようになる
床の間は親戚やお客さんが来た時に寝室にしてもらえば、扱い上は上位
なので問題もないが、仏間ではなかなかそうもいかず寝苦しいはず
洋風にマッチングした仏壇が出てはいるが、どうも部屋に融和しない
暗そうなテーマだけど、素朴に
人生に一度限りで二度目の経験がない自分の墓とか仏壇に対して
自分なりの経験を通じて感じることを素直に思うことをまとめてみました
自分の墓への参拝は要らず、墓もいらないと思う
■そう思う12の理由
1 時間がたてば忘却がよし、日常が健全
何を引き継いで欲しいか、語っているかは残された人の意識や生前の
関係性に影響し、それさえも年月とともに希薄化していく
それならいっそ、お墓や仏壇は要らないという自分流の割り切り
2 自分のためにわざわざ時間を作らなくてよい
遺骨を墓地の一角に安置し、残った人に偲んで頂くことなく、
その後の自分たちの生活にのみ取り組んでもらう方に意義を感じる
3 お墓をめぐっての係争回避
お墓があると掃除が必要になり、親戚同士でつまらない順序や行き届き
具合で小さな火種になる場合がある 生きているうちが華だと知らず
4 自己嫌悪に陥ることがある
父親の墓への命日や盆の法事には法要の後には、車で15分程度の
場所にあるに墓参りに行く ただ、冬場の足元の都合で過去に
何回か出来なかったことがあり、戻らない時間の経過とともに遡って
残念がることがあった 将来に至って遠隔地に余儀ない都合で墓参
できない状況はいつだってあり、同じ気分を再現させたくない
5 墓の絶対数への気がかり
そもそも、何千年に遡り、亡くなった人の数と墓の数がどう考えても
整合しない 無縁の方、戦没、経済的理由、遺骨さえなく形に出来ない
いろいろあってもやはり数が合わない
6 戒名の各付けは極めて不明
日本では仏教思想は生活習慣の中に溶け込み、キリスト教イスラム教
の方でさえ、日常は断片的にも影響があり、神道の根源的な形式と
思考や振る舞いを裏付ける仏教は多数派で、私もその端くれである
ただ、存命中は俗名で、亡くなると戒名を寺のお坊さんが付けることに
疑問がある 何故ならば、金額に応じ名前の付け方にランクがある
だから戒名もいらない
7 様式は大切にする方だが形式はあと
宗教上まちまちであるが、神社や教会で結婚式を上げ、亡くなると
仏式で送る 無宗教の自分の父親も病院の誤手術で急に亡くなり
どうして欲しかった判らないまま、葬儀屋任せになってしまった
結局は本人の遺志より残された人々の合意によるものだった
8 過去の偉人の墓でさえ風化するのに
当然、その方の意思を引き継ぎ、生きざまこそが象徴であることもある
忘れえぬ人、又は忘れてはいけない人として、お墓や仏壇が象徴的な
モニュメントの役割を果たすことがある
振り返ると、自分は先祖子孫の中間地以外どれにも該当しそうにない
9 骨は正直言って気味が悪い
骨壺などはどれだけ大切な人のものでも、ある種不気味さ漂う、
なので、残された人に対して扱いに時間を使い、気遣いをさせたくない
10 身勝手に思えて
近くに葬儀場が出来ると聞くと、近隣住民から反対運動が出る
結婚式場は華やかで問題なく、この場合は必要なのは遺族だけとなる
都合よすぎるが、私自身も心なしか歓迎派にはなれない
自己矛盾を解消するため、お経・葬儀も要らない 故に墓も要らない
11 人間は自然界の一部
生物が好きで、すべての学問をひも解く時は生物の営みは常に興味が
あり参考になる 生きとし生けるものために懸命になっている
そもそも人間も同じで、亡くなれば自然に還るのが当たり前で、特別
にお墓などなくても良い なので、海や山などで法的弊害がなければ
散骨される状態が好ましく、自然に思えてくる
12 見てわかるもっと身近な存在が良い
ジメジメしているとか骨が不気味とか、好き勝手な言い分の羅列だが
存在が消えても、残った人があまり忌むようなものでなく、自然に
愛着が沸き、ずっと大切にしたくなるような唯一世界に一つのシンボル
のような物があれば良いと思う
キリスト教なら十字架のペンダントかもしれないし、ある人は形見の
時計だったりと、様々な特別な物や形・象徴があると思う
日常生活の中に溶け込んだそのような唯一特別な物を作って提案したい
と考えている
■上文までに対しての言い訳
普通はどうかというと、普通はない
命の尊厳に対して不遜な気持ちはない、固有の事情の全てまで到底斟酌出来
るはずもありません
本来最初に断るべきことは、とても悲惨な事項に遭われて亡くなった方の場合
多く方に事実を知っていただき広く鎮魂の念をもって報いるべき場合もある
また、どれだけ思いをそそぎ続けても、戻ってこない悲しみの淵から抜け出せ
ない遺族の方々にとって、墓前に手を合わさずにいられない
「自分だけ生きていて申し訳ない」と、そういう言葉も身近にも聞きます
なので、私の体験による個人的な意見や感想を読んで、不愉快な気持ちに
なられる状況に対峙される方に対しては、あらかじめのお詫びと容赦をお願い
するしか術はありません
人間の意識は風化することも事実
宗教的な儀式についての触れ始めたが、にわか仏教徒の私にとっての教義
習慣は常に出来事が起こった後に、そのようなものかと、あとで紐解く
ようなことばかりでした
ただ、日常的に努力して研究したり磨き上げるような性格のものでなく、
意識や記憶は年月とともにそれこそ細胞分裂のたびごとに忘れるように
なっていて、法要の周期も先人の経験上生み出されたものだと推測しています
忘却して良いものかとする心の葛藤の部分を教義で昇華するのではないかと
勝手に解釈しています
誰でもが初経験だけど復習出来ないことがあります
自分なりの解釈とある種の割切も含め書いてみました