人に先立たれたあと、感情の整理が出来なくても放置プレイは許されない(誰でも決断に迫られる)

  ■ 墓の数が合わない 

日常あまり触れないし、共感性も乏しいことわかってますが、誰でもが

避けられないテーマとして書いて見ました

太古、どこまでさかのぼるかは別にして、生まれ、

やがて亡くなった人の墓の数が合わないのです

 

素朴な疑問として古代から累々と、人は生まれては亡くなりを繰り返してきた

ところが、京都の地元でも他府県に旅行に行っても墓の数は対して増えていく

現象はない  少なくともそう思えた

 

かつて墓の寿命はというと、あるお坊さんに聞いた

ところ6代までと言ってた記憶があった

 

 

本当かと、もっと詳しく調べ、ググってみると

以下のような報告を見つけました

                             以下掲載抜粋

墓じまいをする人がどんどん増えている事実がある

 全体的なトレンドからすれば、墓じまいの増加傾向は今後も続くことが予想されます。日本は人口減少社会に突入しており、人口減少に歯止めがかからない限り、現存のお墓を承継する人の数は不足していくでしょう。

ただ、墓じまいを行う個々の人々の事情が直接に人口動態と関連しているとはいえないでしょう。個々人が人口動態を意識して選択をしているわけではないからです。個別に見ていくと、「お墓が遠くて管理が大変だから近くにお墓を移転させたい」という人もいれば、「承継者がいないから自分の代できちんと墓じまいをしてしまいたい」という人もいます。また、兄弟の少ない夫婦であれば、両家の墓を継ぐことになって管理負担が大きいため「ひとつにお墓をまとめたい」というニーズもあります。

 

大まかにみると「墓参りや管理の負担」「金銭的負担」「承継者不在」などの理由が中心にはなっています。

このように個々の事情はさまざまです。しかし、人口減少の動向と墓じまいの増加がリンクしているように見えることは興味深いことです。総務省統計局が発表している人口推計によれば、日本における総人口はピークの2008年から比較して2016年には約110万人も減少しています。2010年からは一貫して減少していますが、改葬数は2010年以降増加傾向にあります。3

少子化など家族構成の変化、多死社会と呼ばれるような段階に日本社会が入ってきたことなどからすれば、墓じまい(改葬)数の増加は当然の流れなのかもしれません。

 

墓じまいに抵抗感を持つ必要はない

実は3、4世代しか眠っていない「先祖代々の墓」

墓じまいをする際に新たな墓を建てない場合、「ご先祖様に申し訳ない」と考える方が多くいらっしゃいます。先祖からずっと続いてきたお墓を自分の代でなくしてしまうのだ、という罪悪感が心理的負担になる人も多いのです。

しかし、「先祖代々の墓」と考えられている墓の多くは、実はほんの3,4世代分のお墓に過ぎないことが多いのも現実です。現在では火葬して焼骨を一家の墓に納骨するのが当たり前と考えられていますが、日本で火葬が普及しはじめたのは明治時代以降のことで、大正14年(1925年)でも火葬率は43.2%に過ぎなかったとされています4。現在ほぼ100%といわれている日本の火葬率が50%を超えたのも昭和10年頃だともいわれています。土葬は故人1人ずつの墓であることが通常ですので、「先祖代々の墓」というあり方が日本で主流になってからまだ100年も経っていないということです。そして多くの場合、土葬されていたはずの古い先祖の遺骨は現在の墓の中には納められていません。

もちろん数代であっても守られてきた墓をなくしてしまうことへの抵抗を感じる人はいるでしょう。ただ、「先祖」といっても多くの墓は数代の人々の墓に過ぎないのだということを理解しておくことは無意味ではないと思います。

 

墓じまいをすれば問題を次世代に先送りしなくて済む

承継者のいない墓を放置しておけば、墓は荒れ、無縁墓になりいずれは撤去されてしまいます。承継者がいる場合でも、墓を継いでもらうことはもしかしたら問題を次世代に先送りしているだけなのかもしれません。実際、承継者がいる方でも「子供や孫を墓参りに誘ってもなかなか一緒に来てくれない」という理由で墓じまいを検討する方もいます。

率直にいえば、「先祖代々の墓」に本当に昔のご先祖様が眠っていることはほとんどありません。そうであれば、罪悪感や抵抗感にさいなまれるよりも、未来の子孫のことを考えてお墓のあり方を検討する方が良いのではないかと思います。

また、本当に承継者がいない方の場合は、放置していれば無縁墓(無縁仏)になってしまうことは避けられません。無縁墓(無縁仏)になってしまうよりも、自分の代で墓じまいをして遺骨をしかるべき方法(合同供養塔などへの納骨、散骨など)で供養することは、前向きで良い選択だといえると思います。

先に見たように日本は人口減少社会に突入しました。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば総人口2040年の1億1,092万人、2053年には9,924万人、2065年には8,808万人になるとされています(出生中位推計)5。お墓を増やすのはもちろん、現状のお墓の数のままであっても、それを管理していくことが難しいことは明らかなように思えます。本来は、個々人が墓じまいについて頭を悩ますだけでなく、社会全体としてお墓のあり方自体を見直し、将来世代に負担を先送りしないようにすべき時期にきているのではないでしょうか。          

                              以上まで掲載抜粋

 

そこで次に

 

素朴に連想で、住居内の仏壇については?調べたら

                           船井総研調査によると

1997年を「100」とすると「74.63」「71.68」「46.21」

 1997年、2002年、2007年、2014年の仏壇業界の市場規模の推移を示した数字です。

2007年~2014年間に30%以上の市場減少。

                            以上までデータ抜粋

 

この現象に対して、私なりに補足してみますと

仏壇の減少は墓と同じの継承の問題もあるし、初期費用の問題や現代の住宅内に仏壇がなかなか溶け込まないといったデザイン上の理由もある(先のブログで説明してます)

 

 

人口減少といっても高齢者の比率は高いが、今後は?

実は墓や仏壇のことは若い人の次世代の課題である

究極的には人が亡くなって、周囲の人は

「放置プレイ」は許されないのである

 

そこで具体的な対応案を考えたい

流れは止められない、が、自分の大切な人の思いでや偲ぶ気持ちは不変でも

時代とともにその形式や扱い方は変わっていく

そんなテーマに対して、建築デザインの経験側面を通じて思いを形に残す

方法を考えて具体的に提案していきたい

次回以降掲載でこれからの取り組みを案内したいと思っています 

 

人に先立たれたあと、感情の整理が出来なくても放置プレイは許されない(誰でも決断に迫られる)

  ■ 墓の数が合わない 

日常あまり触れないし、共感性も乏しいことわかってますが、誰でもが

避けられないテーマとして書いて見ました

太古、どこまでさかのぼるかは別にして、生まれ、

やがて亡くなった人の墓の数が合わないのです

 

素朴な疑問として古代から累々と、人は生まれては亡くなりを繰り返してきた

ところが、京都の地元でも他府県に旅行に行っても墓の数は対して増えていく

現象はない  少なくともそう思えた

 

かつて墓の寿命はというと、あるお坊さんに聞いた

ところ6代までと言ってた記憶があった

 

 

本当かと、もっと詳しく調べ、ググってみると

以下のような報告を見つけました

                             以下掲載抜粋

墓じまいをする人がどんどん増えている事実がある

 全体的なトレンドからすれば、墓じまいの増加傾向は今後も続くことが予想されます。日本は人口減少社会に突入しており、人口減少に歯止めがかからない限り、現存のお墓を承継する人の数は不足していくでしょう。

ただ、墓じまいを行う個々の人々の事情が直接に人口動態と関連しているとはいえないでしょう。個々人が人口動態を意識して選択をしているわけではないからです。個別に見ていくと、「お墓が遠くて管理が大変だから近くにお墓を移転させたい」という人もいれば、「承継者がいないから自分の代できちんと墓じまいをしてしまいたい」という人もいます。また、兄弟の少ない夫婦であれば、両家の墓を継ぐことになって管理負担が大きいため「ひとつにお墓をまとめたい」というニーズもあります。

 

大まかにみると「墓参りや管理の負担」「金銭的負担」「承継者不在」などの理由が中心にはなっています。

このように個々の事情はさまざまです。しかし、人口減少の動向と墓じまいの増加がリンクしているように見えることは興味深いことです。総務省統計局が発表している人口推計によれば、日本における総人口はピークの2008年から比較して2016年には約110万人も減少しています。2010年からは一貫して減少していますが、改葬数は2010年以降増加傾向にあります。3

少子化など家族構成の変化、多死社会と呼ばれるような段階に日本社会が入ってきたことなどからすれば、墓じまい(改葬)数の増加は当然の流れなのかもしれません。

 

墓じまいに抵抗感を持つ必要はない

実は3、4世代しか眠っていない「先祖代々の墓」

墓じまいをする際に新たな墓を建てない場合、「ご先祖様に申し訳ない」と考える方が多くいらっしゃいます。先祖からずっと続いてきたお墓を自分の代でなくしてしまうのだ、という罪悪感が心理的負担になる人も多いのです。

しかし、「先祖代々の墓」と考えられている墓の多くは、実はほんの3,4世代分のお墓に過ぎないことが多いのも現実です。現在では火葬して焼骨を一家の墓に納骨するのが当たり前と考えられていますが、日本で火葬が普及しはじめたのは明治時代以降のことで、大正14年(1925年)でも火葬率は43.2%に過ぎなかったとされています4。現在ほぼ100%といわれている日本の火葬率が50%を超えたのも昭和10年頃だともいわれています。土葬は故人1人ずつの墓であることが通常ですので、「先祖代々の墓」というあり方が日本で主流になってからまだ100年も経っていないということです。そして多くの場合、土葬されていたはずの古い先祖の遺骨は現在の墓の中には納められていません。

もちろん数代であっても守られてきた墓をなくしてしまうことへの抵抗を感じる人はいるでしょう。ただ、「先祖」といっても多くの墓は数代の人々の墓に過ぎないのだということを理解しておくことは無意味ではないと思います。

 

墓じまいをすれば問題を次世代に先送りしなくて済む

承継者のいない墓を放置しておけば、墓は荒れ、無縁墓になりいずれは撤去されてしまいます。承継者がいる場合でも、墓を継いでもらうことはもしかしたら問題を次世代に先送りしているだけなのかもしれません。実際、承継者がいる方でも「子供や孫を墓参りに誘ってもなかなか一緒に来てくれない」という理由で墓じまいを検討する方もいます。

率直にいえば、「先祖代々の墓」に本当に昔のご先祖様が眠っていることはほとんどありません。そうであれば、罪悪感や抵抗感にさいなまれるよりも、未来の子孫のことを考えてお墓のあり方を検討する方が良いのではないかと思います。

また、本当に承継者がいない方の場合は、放置していれば無縁墓(無縁仏)になってしまうことは避けられません。無縁墓(無縁仏)になってしまうよりも、自分の代で墓じまいをして遺骨をしかるべき方法(合同供養塔などへの納骨、散骨など)で供養することは、前向きで良い選択だといえると思います。

先に見たように日本は人口減少社会に突入しました。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば総人口2040年の1億1,092万人、2053年には9,924万人、2065年には8,808万人になるとされています(出生中位推計)5。お墓を増やすのはもちろん、現状のお墓の数のままであっても、それを管理していくことが難しいことは明らかなように思えます。本来は、個々人が墓じまいについて頭を悩ますだけでなく、社会全体としてお墓のあり方自体を見直し、将来世代に負担を先送りしないようにすべき時期にきているのではないでしょうか。          

                              以上まで掲載抜粋

 

そこで次に

 

素朴に連想で、住居内の仏壇については?調べたら

                           船井総研調査によると

1997年を「100」とすると「74.63」「71.68」「46.21」

 1997年、2002年、2007年、2014年の仏壇業界の市場規模の推移を示した数字です。

2007年~2014年間に30%以上の市場減少。

                            以上までデータ抜粋

 

この現象に対して、私なりに補足してみますと

仏壇の減少は墓と同じの継承の問題もあるし、初期費用の問題や現代の住宅内に仏壇がなかなか溶け込まないといったデザイン上の理由もある(先のブログで説明してます)

 

 

人口減少といっても高齢者の比率は高いが、今後は?

実は墓や仏壇のことは若い人の次世代の課題である

究極的には人が亡くなって、周囲の人は

「放置プレイ」は許されないのである

 

そこで具体的な対応案を考えたい

流れは止められない、が、自分の大切な人の思いでや偲ぶ気持ちは不変でも

時代とともにその形式や扱い方は変わっていく

そんなテーマに対して、建築デザインの経験側面を通じて思いを形に残す

方法を考えて具体的に提案していきたい

次回以降掲載でこれからの取り組みを案内したいと思っています 

 

自分は残った人に対して偲ぶことにあまり時間を取らせたくない

 ■私の場合、墓への参拝は要らない

  父親は15年前に病院で医師の手術ミスで急逝した

 

  存命中、父親の言葉

  そもそも人は思考停止と共にこの世に存在しなく

 なるし、身体はやがては風化し、自然の一部になる

 

  私の場合もともと無宗教であったが、急遽仏式で葬儀をあげた

  そして、墓地を探して墓を建て、仏壇を購入し実家にしつらえた

 

  没後どうして欲しかったわからないまま、何となく皆がそのようにしている

  からという理由で、習慣なのか風習なのか、納得するとか合理的とかは

  深くは考えたことはなかったが、墓前、仏壇の前では父親には「会いに来た

  報告」「元気か」「今こんなことやってる」とか瞬時に漠然と、冥福を祈る

  固まりのような気持ちを一生懸命込めようとしている 

  その時によって「込め方」に強弱がある 

  強弱などと恥ずかしい部分でもあるが、正直なところそうである

 

  命日などが過ぎ、振り返って気づくことは

  父親が大切にしてたことを思い出す

  檄を飛ばすことがあれば、一体何か教えてくれ!と何気なく思う

 

  仏壇に関しても、素朴な疑問

   この機会に、少し性格は違うが同じように合掌する場として

  1点目

  釈迦の教えを弟子の方々がそれぞれの解釈により宗派に分かれ「経」として

  まとめた書典をお寺さんに読み上げてもらっている

  馬鹿な事をというが、線香をあげて合掌するのは故人に対してであって、

  仏壇中央奥には仏像ではなく、故人の象徴的な何かの方が実感が湧く 

  勝手に並べ替えろと言われても、困ったものでそこが弱いところ、不遜な

  気持ちや「ばちがあたる」みたいな子供心の刷り込みのような気分で抵抗

  感は半端なく出てくる 

 

  2点目

  仏壇は設置した途端に特別な部屋になり、それが寝室として使う場合、

  私の本職は建築設計で、経験上、もともと床の間だった部屋に仏壇を置けば

  名称としては仏間と呼ぶようになる

  床の間は親戚やお客さんが来た時に寝室にしてもらえば、扱い上は上位

  なので問題もないが、仏間ではなかなかそうもいかず寝苦しいはず

  洋風にマッチングした仏壇が出てはいるが、どうも部屋に融和しない

 

 

   暗そうなテーマだけど、素朴に

 

  人生に一度限りで二度目の経験がない自分の墓とか仏壇に対して

  自分なりの経験を通じて感じることを素直に思うことをまとめてみました

 

  

   自分の墓への参拝は要らず、墓もいらないと思う

 

   そう思う12の理由

 

  1 時間がたてば忘却がよし、日常が健全

    何を引き継いで欲しいか、語っているかは残された人の意識や生前の

    関係性に影響し、それさえも年月とともに希薄化していく

    それならいっそ、お墓や仏壇は要らないという自分流の割り切り

 

  2 自分のためにわざわざ時間を作らなくてよい

    遺骨を墓地の一角に安置し、残った人に偲んで頂くことなく、

    その後の自分たちの生活にのみ取り組んでもらう方に意義を感じる

 

  3 お墓をめぐっての係争回避

    お墓があると掃除が必要になり、親戚同士でつまらない順序や行き届き 

    具合で小さな火種になる場合がある 生きているうちが華だと知らず

 

  4 自己嫌悪に陥ることがある

    父親の墓への命日や盆の法事には法要の後には、車で15分程度の

    場所にあるに墓参りに行く  ただ、冬場の足元の都合で過去に

    何回か出来なかったことがあり、戻らない時間の経過とともに遡って

    残念がることがあった 将来に至って遠隔地に余儀ない都合で墓参

    できない状況はいつだってあり、同じ気分を再現させたくない

 

  5 墓の絶対数への気がかり

    そもそも、何千年に遡り、亡くなった人の数と墓の数がどう考えても

    整合しない 無縁の方、戦没、経済的理由、遺骨さえなく形に出来ない

    いろいろあってもやはり数が合わない

 

  6 戒名の各付けは極めて不明

    日本では仏教思想は生活習慣の中に溶け込み、キリスト教イスラム

    の方でさえ、日常は断片的にも影響があり、神道の根源的な形式と

    思考や振る舞いを裏付ける仏教は多数派で、私もその端くれである

    ただ、存命中は俗名で、亡くなると戒名を寺のお坊さんが付けることに

    疑問がある 何故ならば、金額に応じ名前の付け方にランクがある

    だから戒名もいらない

 

   7 様式は大切にする方だが形式はあと

    宗教上まちまちであるが、神社や教会で結婚式を上げ、亡くなると

    仏式で送る 無宗教の自分の父親も病院の誤手術で急に亡くなり

    どうして欲しかった判らないまま、葬儀屋任せになってしまった

    結局は本人の遺志より残された人々の合意によるものだった

 

  8 過去の偉人の墓でさえ風化するのに

    当然、その方の意思を引き継ぎ、生きざまこそが象徴であることもある

    忘れえぬ人、又は忘れてはいけない人として、お墓や仏壇が象徴的な

    モニュメントの役割を果たすことがある

    振り返ると、自分は先祖子孫の中間地以外どれにも該当しそうにない

 

  9 骨は正直言って気味が悪い

    骨壺などはどれだけ大切な人のものでも、ある種不気味さ漂う、

    なので、残された人に対して扱いに時間を使い、気遣いをさせたくない

    

  10 身勝手に思えて

    近くに葬儀場が出来ると聞くと、近隣住民から反対運動が出る

    結婚式場は華やかで問題なく、この場合は必要なのは遺族だけとなる

    都合よすぎるが、私自身も心なしか歓迎派にはなれない

    自己矛盾を解消するため、お経・葬儀も要らない 故に墓も要らない 

 

  11 人間は自然界の一部

    生物が好きで、すべての学問をひも解く時は生物の営みは常に興味が

    あり参考になる   生きとし生けるものために懸命になっている

    そもそも人間も同じで、亡くなれば自然に還るのが当たり前で、特別

    にお墓などなくても良い  なので、海や山などで法的弊害がなければ

    散骨される状態が好ましく、自然に思えてくる

 

  12 見てわかるもっと身近な存在が良い

    ジメジメしているとか骨が不気味とか、好き勝手な言い分の羅列だが

    存在が消えても、残った人があまり忌むようなものでなく、自然に

    愛着が沸き、ずっと大切にしたくなるような唯一世界に一つのシンボル

    のような物があれば良いと思う  

    キリスト教なら十字架のペンダントかもしれないし、ある人は形見の

    時計だったりと、様々な特別な物や形・象徴があると思う

    日常生活の中に溶け込んだそのような唯一特別な物を作って提案したい

    と考えている

    

    

   上文までに対しての言い訳

 

  普通はどうかというと、普通はない

  命の尊厳に対して不遜な気持ちはない、固有の事情の全てまで到底斟酌出来

  るはずもありません

  本来最初に断るべきことは、とても悲惨な事項に遭われて亡くなった方の場合

  多く方に事実を知っていただき広く鎮魂の念をもって報いるべき場合もある

  また、どれだけ思いをそそぎ続けても、戻ってこない悲しみの淵から抜け出せ

  ない遺族の方々にとって、墓前に手を合わさずにいられない

  「自分だけ生きていて申し訳ない」と、そういう言葉も身近にも聞きます

  なので、私の体験による個人的な意見や感想を読んで、不愉快な気持ちに

  なられる状況に対峙される方に対しては、あらかじめのお詫びと容赦をお願い

  するしか術はありません

  

 

  人間の意識は風化することも事実

  宗教的な儀式についての触れ始めたが、にわか仏教徒の私にとっての教義

  習慣は常に出来事が起こった後に、そのようなものかと、あとで紐解く

  ようなことばかりでした

  ただ、日常的に努力して研究したり磨き上げるような性格のものでなく、

  意識や記憶は年月とともにそれこそ細胞分裂のたびごとに忘れるように

  なっていて、法要の周期も先人の経験上生み出されたものだと推測しています

  忘却して良いものかとする心の葛藤の部分を教義で昇華するのではないかと

  勝手に解釈しています

 

  誰でもが初経験だけど復習出来ないことがあります

  自分なりの解釈とある種の割切も含め書いてみました

  

 

  

 

老人には仕事をさせるのが効果的

 

 ■ 評価は人が決めるというが 

  老人の域になり、社会や家族と接する時間が少なくなると

  価値判断さえ、その人自身がしなくてはならなくなる

  男女年齢問わず、孤独に耐えられなかったり、自分の存在を否定して

  しまう状況のスパイラルに陥ると、自分の存在価値さえ否定し始める

  しかし、余程深刻なのは、その存在が忘れられることである

  誰にでも当てはまることですが、老人を対象に考えたい

 

 

  老人とは

  検索すると、高齢者の定義と考えると65歳以上からとなるようだ

  40・50代でも考え方が固着し、老成化したような人も結構多い

  今は70・80代でも取り組む何かがある人の場合、ここでは当たらない

  一般的な表現でいうと長年仕事を続けて来た人が定年した場合、特に

  仕事一筋の真面目な人はなかなか社会役割を果たす実感を、特に真面目

  なだけに思い詰めるのではないだろうか 記事での老人は、このような

  平均的な方を対象としたい 

 

 

  仕事(つまりやること)がないと

  年齢を重ね、仕事の前線から少し距離を置くように

 なると自分が社会との関わり方に対して、重み付け

 を自然と問いかけるようになる

 

 特に家族が少しづつ離れ、まして通院するような

 病気がちともなれば自分が重荷になっていないか

 などと考えるようになる

 

 

  役割を果たしてもらう

  出来ることは何でもしてもらう、できれば社会的な

   整備が整えば報酬を伴うほうが、なお良いが…

  政府の年金受給対象年齢を引き上げ「働き方改革」こんなものは話題にも

  ならない給付財源縮小の隠ぺい詭弁にすぎないことは誰でもわかる

  専業主婦が、頑張って帰宅した旦那に「お茶は?」「風呂は?」と聞いて

  悪いはずがなく、「私だって家事で忙しい!」と切り返すのは分業が進んで

  いる状態では言い方次第

  報酬がなくてもボランティア活動は素晴らしく社会貢献出来る仕事と言える

  報酬がある方がわかりやすくて良い

 

 

   立っているものは親でも使え

  昔のことわざにあるが「立っているものは親でも使え」は急いでいるときは

  頼んでも処理せよという事のようだ

  小さなことでも分担して協力してもらって仕事を

  やってもらう方が良い

  そこには頼み方の段階でコミュニケーションの場

 もあれば、頼まれる側も期待に応える気持ち自体が

  心地良いのではないか

  

 

   趣味や共感性では得られない

  朝の通勤電車の座席に70代ぐらいの男女2名ずつの仲良しグループが占有

  している 私の通勤先がローカルな場所にあり、よく見かける風景だ

  吊革に疲れた顔をした、半ば居眠りをした派遣社員が揺れている(同じ工場が

  行き先でよく知っている人物が多数)ご褒美で年金生活が出来、趣味で山登り

  も良いだろう

  しかし、不自然な光景である もう優先座席は身体的なハンデがある人限定で

  良い気がする(妊婦もその一角、ただ子供は鍛えるため別に座らなくて良い)

 

  横道にそれた

 

  少し自分を見つめる習慣がある人は、受け取る側が

  価値を感じなければ、自分もあまり存在を感じない

 

   高齢化が進むというが、働き手を何故外国人労働者なのか?

  人手不足なら、コンビニでも老人に働かせれば良い

  レジ周りにAIを使って効率化を図るという企業の

  ビジネスチャンス探しは正直不気味だ

  少々レジ打ちのスピードが遅くて何が問題で、何が

  気に入らないのか良くわからない

  段階的な大店法の改定以来、商店街はシャッター商店街となり閑散となり、

  若い人も活気のない街に住みたくないとばかり都会に働きに行く

  金物屋さんからおばーちゃんが出てくる様子は何処に行ったのか

 

   もっと寛容に

  身体的な制限が出来てしまった人でもできるだけ自分で身の回りのことやるは

  ホームヘルパーや介護の現場では行われている 老人にも特別扱いせずガンガン

  働いてもらう 休息は必要だが、忘れた存在を放置するのも良くない 

  既に加速化してる高齢化に対しては、働ける人は

  働き、動ける人は動くのが良い

 

 

   神経質で失敗を許さない気質はおかしい

  人に対してもっと失敗や速度に対して寛容に余裕をもって対応しないと

  いけない 失敗を許さないというのであれば政治の世界はどうなる、世界

  情勢はどうなのか?矛盾だらけではないか

  個人レベルではもっと寛容にならなければならない

  弱者ばかり糾弾したり、それに乗っかるだけでは

  誘導されても気がつかない鈍感の塊になる

 

   若いベンチャー起業家は年寄りに仕事をさせる

  そろそろ、自動車のシェアとか宇宙とかの可能性もあるが、出尽くし感を

  感じたならば「年寄りに仕事をさせる」こともビジネスチャンスと感じな

  ければいけない

  仕事の後の爽快感で財布の紐も緩む 

  若い人には非正規ことから正規雇用に切り替え、老人が派遣社員で活躍する

  方法はないのか